温故知新 健康食品−トリプトファン事件(1989年)−
平成12年1月10日
kkankos
最新情報!! 温故知新 健康食品−トリプトファン事件(その後)2007.4.1Update もご覧ください
遺伝子組換え食品の表示問題では農水省が表示義務づけを決定し、厚生省も続くようである。農水省も厚生省もよく決めたもんだなあ。各自治体からよせられた、遺伝子組換え食品に表示義務づけを求める意見書は、行政にとってそんなにも重かったのかなあ、などと考えていた。
何故こんなに問題になるのか?
@ 予期せぬ不純物の生成
A 組込んだ遺伝子部分だけの機能だけではなく、もっとマクロな変化の発現する可能性
B 生態系の破壊
こんな所が問題点かなあと考えていた。すべて科学的実証の困難な問題ばかりである。
行政でできることは、表示を義務づけ消費者の選択に任せること。そして次に来るのは、第三者による監視委員会を設けメーカーの暴走を防ぐこと。でも大変なことだなあ。
食品衛生調査会は、証明できないこと、再現できない研究結果、危険の可能性の想定などをもって規制しようとはとても発言できない。100年後の子孫に安全な食生活を・・と主張する日本子孫基金など種々のNGO活動や、世論をもとにした政治的な決着に委ねなければ規制は難しいだろうなあと考えてきた。
やはり表示義務づけは、政治的な決着だった、などと考えていた。
そんなときに、食品衛生学雑誌の1999年第5号の総説を見て驚いた。遺伝子組換え技術利用健康食品のトリプトファン事件では、38名の死亡者が出ていた。これはすごい事件だったんだと、がーんと衝撃を食らった。ずっと記憶の片隅にはあったが、詳細な内容は目にしていなかった。
事故原因のトリプトファンは、枯草菌に新たな機能を持つ遺伝子を組み込み、原料物質と混ぜそれを大量培養し、生成されたトリプトファンを精製し、製造されていた。また、トリプトファン事件はフレーバーセーバートマトや、除草剤耐性大豆などと違い、組換え体そのものではなく、組換え体に産生させた物質を、健康食品として食べて起きたものである。
しかし遺伝子組換え食品に対する不安を呼び起こす、最重大事件であった。
参考資料は次のとおりである。
@ 食品衛生学雑誌 第40巻 第5号 p335ー355(1999年)
L−トリプトファン摂取によるEMS(好酸球増多筋痛症候群)事例の概要と我が国にお ける研究経過について 著者 元国立衛生試験所長 内山充氏
A 食品汚染性有害物事典(産調出版) p163−168(1998年)
好酸球増加筋痛症候群(EMS)
B 朝日新聞記事
C 国通知
・平成2年3月31日付「アミノ酸を含有する健康食品の取扱について」 厚生省新開 発食品保健対策室
・平成3年12月26日付「組換えDNA技術応用食品・食品添加物の製造指針・安全 性評価指針について」 厚生省生活衛生局長
1 情報収集
(1) インターネットによる検索
インターネットのYahooにより、トリプトファン・遺伝子組換え食品の検索を行うと、2件の検索結果が出てきた。
@ 書籍タイトル:不自然な収穫 著者:インゲボルグ・ボーエンズ 訳者:関裕子
A 請願:平成9年9月定例会 遺伝子組換え食品に表示の義務付けを国に求める意見書提出について.
@は書評である。 Aは埼玉県議会の平成9年の国への意見書であった。ここには以下のような解説が記載されていた。
1988年には、昭和電工が遺伝子組換えで微生物から製造したアミノ酸の「トリプトファン」が栄養食品としてアメリカなどで販売されたが、38人が死亡し、数千人が好酸球増加、筋肉痛症候群の後遺症になるなどの大きな被害を受けた。また、アメリカでは、ブラジルナッツの遺伝子を組み込んだとうもろこしを飼料とした鶏肉を食べた人にアレルギー症状が発生したため、開発を中断した事例がある。
このように述べられ、トリプトファン事件及びブラジルナッツの遺伝子を組み込んだとうもろこしの事件が代表的な例として紹介されている。
一方、トリプトファンだけで検索すると1,113件がヒットし必須アミノ酸としての側面がクローズアップされる。また、遺伝子組換え食品だけで検索すると、143件がヒットし、やはり多くは組換え食品の表示問題へのリンクとなっている。
(2) 新聞情報
愛知県図書館に行き、トリプトファン事件の単行本はないかと図書検索機で探してみたが、出てこなかった。昭和電工50年誌などはあったが。結局、朝日新聞の縮刷版を片っ端から探すしかないなあと決心し、やりはじめたら、ぞろぞろ出てきた。1989年11月から記事は始まっており、約1年分で9本の記事を見つけた。
インターネット上でも検索ができないかと調べてみたが、朝日新聞記事データベースを利用するためには、3,000円/月の基本料金と80円/件の閲覧料金が必要な事が分かった。
パソコン通信経由なら基本料金不要であり、80円/分で閲覧サービスが受けることが出来る。パソコン通信のNIFTYから試しにやってみたが、あきれるほど便利なものであった。”トリプトファン”とタイプすると、最近15年分の新聞記事みだしを一気に検索し、23件と表示するのに10秒もかからなかった。更にこれはというようなものをダウンロードしてみた。まごつきながらの以上の利用で、料金は640円(8分)であった。図書館に行って、新聞縮刷版を目を皿のようにして探すより、よっぽどらくちんのハイスピードであった。操作は次のようであった。
NIFTY(ROAD2) go asahi
朝日新聞記事情報 ASAHI
本サービスは 240円/分(ROAD 2: 80円/分)追加料金が必要です。
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>3
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朝日新聞記事データベース/G−Search 00年01月06日
◆000001 89.11.27 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全679字)
栄養剤Lトリプトファン、米で副作用相次ぐ FDAが回収要請
◆000002 90.02.07 朝刊 30頁 2社 写図無 (全0字)☆
「健康食品Lトリプトファンで副作用」 米女性が昭和電工を提訴
◆000003 90.03.19 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全0字)☆
Lトリプトファンによる血管障害、米で「代謝異常が原因」と新説
◆000004 90.04.09 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全0字)☆
トリプトファン、副作用の原因なお不明 米国内の死亡者19人に
◆000005 90.04.24 朝刊 1頁 1総 写図無 (全593字)
Lトリプトファン副作用、国内で実態調査 厚生省
◆000006 90.04.28 朝刊 3頁 3総 写図有 (全728字)
昭和電工などにLトリプトファン関連商品の回収を指示 厚生省
◆000007 90.04.28 朝刊 3頁 3総 写図無 (全473字)
昭和電工、製造責任に触れず Lトリプトファン回収指示
◆000008 90.05.01 朝刊 4頁 解説 写図無 (全375字)
Lトリプトファン(ことば)
◆000009 90.05.02 朝刊 3頁 3総 写図無 (全192字)
Lトリプトファン委が発足
◆000010 90.05.15 夕刊 14頁 2社 写図無 (全190字)
「Lトリプトファン」被害で米調査団来日
◆000011 90.07.16 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全0字)☆
トリプトファンの汚染は89年前半に 米疾病管理センター調査
◆000012 90.08.10 朝刊 8頁 2経 写図無 (全870字)
賠償請求額8億ドル 米で昭和電工の「L−トリプトファン」巡る訴訟
◆000013 90.08.20 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全0字)☆
トリプトファン副作用障害、「工程変更が原因」と米学者
◆000014 90.09.27 朝刊 30頁 2社 写図無 (全401字)
2種類の不純物に絞って動物実験へ Lトリプトファン研究班
◆000015 90.10.04 夕刊 19頁 1社 写図有 (全0字)☆
特定時期の製品 トリプトファン健康食品禍
◆000016 90.10.04 夕刊 19頁 1社 写図有 (全1163字)
昭和電工、不純物認める トリプトファン健康食品禍
◆000017 90.10.04 夕刊 19頁 1社 写図無 (全185字)
トリプトファン<用語>
◆000018 91.01.06 朝刊 9頁 1経 写図有 (全2180字)
PL制度威力 昭電のL−トリプトファン訴訟和解(経済TODAY)
◆000019 91.01.06 朝刊 9頁 1経 写図無 (全93字)
L−トリプトファン<用語>
◆000020 91.12.03 夕刊 5頁 科学 写図無 (全565字)
トリプトファン障害の原因解明に手がかり 不純物がIL5産生高める
◆000021 92.06.22 朝刊 3頁 3総 写図無 (全1088字)
遺伝子組み換えに起因か 昭和電工のトリプトファン健康食品被害
◆000022 92.06.22 朝刊 3頁 3総 写図無 (全157字)
トリプトファン事件<用語>
◆000023 93.02.17 朝刊 9頁 1経 写図無 (全408字)
トリプトファン問題がらみで昭電、特別損失547億円 12月期決算
(3) 第一報の記事
◆000001 (T891127E05--03)
栄養剤Lトリプトファン、米で副作用相次ぐ FDAが回収要請
89.11.27 夕刊 5頁 みんなの科学 写図無 (全679字)
不眠症やうつ病、アルコール依存症に効くとして米国で広く市販されている栄養剤Lトリプトファンの副作用とみられる血管障害が相次いで報告され、米食品医薬品局(FDA)はこのほど、全米の薬局や病院に注意を呼びかけるとともに、製薬会社に薬の回収を求める措置をとった。また原料を製造している日本のメーカー4社を立ち入り調査した。
FDAによると、Lトリプトファン剤の主成分はアミノ酸で、米国では医薬部外品として市販されており、薬局で栄養剤のように簡単に入手できる安全な薬と考えられていた。ところが、最近になって副作用とみられる激しい筋肉痛や発熱、疲労感を訴える服用者が相次ぎ、11月半ば現在の被害報告は37州、287人に達し、うち1人が死亡した。
副作用の原因についてFDAは、適量の服用なら必須(す)アミノ酸であるLトリプトファンそのものが副作用をもたらすことはないとみており、(1)服用量が多すぎた可能性(2)製造段階で異物が混入した可能性……などを指摘している。 FDAによると、製造そのものは米国のメーカーが行っているが、材料のかなりの部分を日本から輸入している。
(ワシントン・吉田〈文〉特派員)
○国内での報告例ない
厚生省薬務局安全課の話 アミノ酸は医薬品、健康食品の原料として広く使われているが、今回のような劇的な副作用の報告は全くない。米国で問題になっているという「栄養剤」の製品が日本にはないのでどんなものかわからないが、FDAと同様の原因が考えられる。この件に関しては、米国FDAから連絡はなく、国内での副作用報告例もないので、調査はしていない。
(4)遺伝子組換えに言及した記事
遺伝子組み換えに起因か 昭和電工のトリプトファン健康食品被害
92.06.22 朝刊 3頁 3総 写図無 (全1088字)
トリプトファンを主成分とする健康食品によって、米国で1500人以上の患者と死者38人を出した事件の原因は、昭和電工(本社・東京)がトリプトファン製造に使った遺伝子組み換え菌が原因である疑いが強まってきた。同社製品に含まれていて原因物質と思われる不純物の化学構造が、組み換え遺伝子の生産物に似ていると分かったためだ。この不純物が原因物質と確定すれば、遺伝子組み換え製品による初の大事故となる可能性が強い。
トリプトファンは必須アミノ酸(ひっすアミノさん)の1つで不眠症などに効くとされ、健康食品として米国で人気があった。事件の原因は他社製トリプトファンにはなく昭和電工製にだけ含まれていた2種の不純物だとされている。この内の1種は米国で構造が明らかにされている。今月初め、厚生省研究班(班長・内山充国立衛生試験所長)が、もう一方の不純物の構造を解明し、「フェニルアミノアラニン」であると突き止めた。
この物質はアニリンという有機化合物とアミノ酸の一種セリンとが結びついた形をしている。昭和電工製トリプトファンは、製造効率を上げるため、セリン合成遺伝子を組み込むなど、4回の遺伝子組み換えをした枯草菌を使って生産された。 フェニルアミノアラニンの化学構造は、1981年にスペインで起きた油症事件の原因物質に非常に近いこともあって、これが原因である公算が大きい。
この問題にくわしい都留文科大学の戸田清・非常勤講師(環境論)は「アニリンの由来がはっきりしないが、セリンは組み換え菌と無関係とは思われない。初めての遺伝子組み換え食品事故だった可能性が高い」と指摘している。
内山班長は「遺伝子組み換えはあくまで製造法に過ぎず、不純物を取り除いて製品にすれば問題ない。この事件は不十分な精製工程が生んだものだ。ただ、菌の性質によって変わった不純物ができた可能性は否定できない」と話している。
○関連何とも言えぬ 昭和電工広報室の話 第2の不純物の構造が決まったばかりの状態なので、遺伝子組み換えとの関連は何ともいえない。製造工程にアニリン系の物質は使っていない。この誘導体が本当に原因か、どういう過程で合成されるのか、今後の研究を待つ必要がある。
<トリプトファン事件> 1988年から89年にかけて米国で、昭和電工が製造したトリプトファンを含む健康食品を食べた人に重大な副作用が多発した事件。筋肉痛と、好酸球という免疫細胞の増加とが特徴で、血行障害を起こして死亡する患者もいた。米国で訴訟を起こした患者の大半は、すでに昭和電工と和解した。日本でも、数例の患者が学会に報告されている。
2 トリプトファン事件とその研究の概要
ここでは、食品汚染性有害物事典の内容を中心に引用する。
(1)好酸球増加筋痛症候群(Eosinophilia-Myalgia Syndrome:EMS)
EMSは、1989年主としてアメリカで発生した症候群であるが、それが合成トリプトファン含有製品を摂取した人々の間に特異的に見られたことから、社会問題となった。トリプトファンはセロトニンの前駆物質として、以前より不眠、鬱状態、月経前症状に対して投与されていたが、近年には、健康食品としても摂取されるようになり、アメリカを中心として、摂取する人が急激に増加していた。
そうした折り、この好酸球増加筋痛症候群(EMS)が見られるようになった。
[*好酸球とは:白血球の一種。白血球のうち、顆粒を多数有するものを顆粒球と呼んでいる。その顆粒の染色性により、好酸球、好中球、好塩基球に分類される。]
(2) 疾病概念
アメリカのCDC(Centers of Desease Control)は1989年、以下の診断基準により好酸球増加筋痛症候群(EMS)を定義した。
@ 1,000ml/μl以上の好酸球の増加
A 日常生活に耐えられない程度の筋痛
B 感染症、新生物など他の疾患が除外できる
(3) 患者数
1992年までにアメリカでは52の州から1,511人が報告され、そのうち死亡例は38例を数えている。患者の中には治癒した人もいるが、依然として好転しない人も多い。我が国でも数例の患者が報告されている。
(4) 因果関係
EMSとトリプトファンの因果関係は、CDCの詳細な疫学的解析の結果極めて明瞭であるとされている。しかしこの疫学的見解については異論も多く報告されている。
現段階では、EMSは
@ トリプトファンの過剰摂取
A 特定時期の昭和電工の製品中にあった特定の不純物
B 患者の特異な体質
この三者の総合によって起こったという考えが認められている。
(5) 発生機序不明について
現在においても、EMSの発生機序は解明されていない。しかし、発症者の95パーセント以上は昭和電工産の特定のロットのトリプトファンを摂取していたこと、多数の患者の発生時期、及びFDAの回収措置で発症が収束したことから見て、問題のロット及びその中の特定の不純物が、直接引き金になっているか、あるいは他の未知の引き金の指標物質となっているかは別として、発症を決定付ける要因であったことは疑いのないところと思われる。
(6) アメリカにおける行政対応
1989年10月 アメリカ・ニューメキシコ州がCDCに対して、激しい筋痛と著明な好酸球増加を示す3名の患者を報告した。CDCはただちに調査を開始し、その症例をEMSと名付け、上の診断基準を示し、2週間の調査期間で全米で287症例と1死亡例を認めた。また、EMS発生とトリプトファン製品摂取との関連性が統計的な有為性をもって示された。
1989年11月 アメリカFDA(Food and Drug Administration)は、1日に100mgを超える合成トリプトファンを投与する製品の全米規模での回収を決定した。
1990年3月 流行がおさまらないため、回収の対象を、治療用の特別食や乳児用の栄養剤などを除く、すべてのトリプトファン製品に広げた。その結果、新たに発症した患者はほとんど報告されなくなった。
(7) 摂取状況など
CDCが1,075名の患者調査を行った結果
・患者の男女比 男1:女5
・白人が97パーセント
・30代後半から50代前半までが半数以上を占めている
・全体の95パーセント以上がトリプトファン製品を摂取した
・その摂取量は1日10mgから15gで平均1.9g
(8)EMS患者の臨床症状など
@ 臨床症状
関節痛 73%
紅斑 60
末梢浮腫 59
咳嗽・呼吸困難 59
発熱 36
皮膚硬化様変化 32
眼瞼浮腫 28
脱毛 28
神経障害 27
肝腫大 5
脾腫 1
A EMSの検査所見
白血球増加 85%
血清aldorase値上昇 46
肝機能値上昇 43
血沈亢進 33
胸部X線異常陰影 21
浸潤影 17
胸水貯留影 12
血清IgE値上昇 17
血清CPK値上昇 10
B EMSの病理所見
10例の患者の筋生検を行った結果
筋膜炎 10例
筋周囲炎 10
炎症性閉塞性毛細血管炎 8
筋周囲繊維化 7
脱神経性筋萎縮 7
再生繊維の散在 6
白筋の繊維萎縮 5
筋内膜炎 5
中心核の増加 4
筋周囲結合組織のフィブリノイド壊死 3
孤立性壊死性繊維 1
(9) 治療
トリプトファン製品の摂取を中止することが第一。中止しても症状が改善しない場合や重傷者にはステロイド剤が用いられる。ステロイド剤の中止により症状が再発することも多い。血漿交換や免疫抑制剤についてははっきりした効果は認められていない。
(10) 類似疾患
EMSは1981年スペインで発生したtoxic oil syndromeに類似している。これは発熱、筋痛、胸部X線浸潤影、好酸球増加、血中aldorase値上昇などをきたす症候群である。この疾患は、不法に売られた油を食用に摂取した人々の間で発生した。患者数は約2万人、死者は300人以上。原因物質は油に含まれたアニリン誘導体と考えられたが、その発生機序はいまだ不明である。
(11) 動物モデル
動物モデルにおいてEMSを発生させた報告はほとんど知られていない。
(12) トリプトファン製品中の不純物
明確にこれが原因物質だと判明した物質はない。
しかし、EBT(1,1'-ethylidenebis[L-tryptophan])という物質及びPAA(3-(phenylamino)alanine)が精力的に研究されており、EMSへの関与が疑われている。
3 内山氏のトリプトファンによるEMSに関する総説
以下は日本における研究内容である。1990年5月に厚生省に原因究明委員会が設置され、更に厚生科学研究班による研究が続いている。また国際共同研究も行われた。
3−1 化学分析に関する研究成果
(1) 検体
当時の国立衛試では、昭和電工より40種類のトリプトファン製品を入手した。そのうち12種は、アメリカCDCにより発症関連と認定されたロット(事故品トリプトファン)であった。
(2) 不純物
高速液クロにより不純物は28ー37個検出された。発症に関連したロットと対照品のロットの比較により、2つの不純物がクローズアップされた。前述のEBT及びPAAである。
(3) 不純物の除去
多くの副生成物は、発酵工程に遺伝子組換えを行った菌株を導入したり、精製工程を簡略化したりした結果できたものと考えられる。これら不純物は、適当な精製法により劇的に減少することから、EMSの病因に精製工程が決定的役割を果たしていると考えられる。
事故品トリプトファンでも不純物の総計は0、5%以下であり、純度は99、6%以上であって、医薬品や食品添加物の公的規格に適合するものであった。その後、ドイツ薬局方ではEBT含量が8ppmとされ、不純物総量も分類により100ppm、300ppmと設定された。
3−2 体内分布及び代謝
(1) EBT (1,1'-ethylidenebis[L-tryptophan])
EBTは胃液で速やかに分解すると言われているが、25%が未分解のまま排泄されたとする研究結果もある。
ラットに対し50mg/kg投与し、一部吸収され、1時間後血漿中に136ng/ml検出された。
(2) PAA (3-(phenylamino)alanine)
PAAは体内で、分解されずに吸収されると推定される。投与後の血漿中の濃度はEBTの25倍と報告されている。また、体内分布は脳内濃度が最も高いことが特筆され、ついで腎臓、肺、肝臓の順である。
PAAが広範に組織に取り込まれ、組織内濃度が循環血と平衡関係にあることは、一般アミノ酸と輸送体を共用する可能性を示唆する。一方、高濃度・長時間の組織滞留は著しく低い代謝・腎クリアランスを示唆し、蛋白への取り込みや蛋白の合成阻害までも含め検討を要するところである。
ラットにおける、体内正常アミノ酸レベルの変化の有無を追及した報告がある。PAA投与後の内在アミノ酸レベル応答としては、芳香族・分子鎖アミノ酸の撹乱が著明に観察された。血液や各組織に広範に、PAA濃度の増減と鏡像的にこれらアミノ酸の減少・回復が認められた。
3−3 動物実験によるEMSの再現
人に見られた症状を動物を用いて再現することにより、発症の機序を明らかにしようとする試みは多数行われたが、いずれも成功していない。Lewis系ラットに事故品トリプトファンを投与して、EMSと同じような筋膜炎や筋周囲炎を生じることを観察したが、好酸球増多は見られていない。
3−4 不純物の生理作用
(1) PAAの脳内投与
ラットの脳内にPAAを注入すると好酸球増多が起こった。
ラットの視床下部視交差上核にEBTを8日間連続投与すると、摂水リズムが変化し、明状態でもよく摂水するようになった。
EBTとL-トリプトファンを脳室に同時投与すると、著明に好酸球が増加し、EMS患者において、EBTによる好酸球の増加が、中枢支配の機構を介して行われている可能性が示唆された。
(2) 不純物による自己免疫の可能性
EMSの臨床・病理像は、好酸球増加性筋膜炎など自己免疫疾患に類似していること、また、EMSの患者血清から好中球細胞質抗体が認められた、との報告もあることから、EMS発症に際して、EBT,PAAなどの不純物に対する抗体が作られ、それが関与している可能性も考えられる。
ウサギに対し皮下免疫法により、EBTに対する抗体が産生された。PAAでは産生されなかった。
(3) サイトカイン関連の生体影響
EMSの特異的病態である好酸球増多並びに好酸球の組織内浸潤には、各種のサイトカイン類の関与が考えられる。
1)T細胞のインターロイキン-5誘導
EBTは健康人の脾T細胞のインターロイキン-5(IL-5)を誘導することが証明された。この反応は、好酸球増多の機構の一つとも考えられる。
2)好酸球の遊走能への影響
EMSの病体形成における特徴に、心筋周辺組織への好酸球の大量の集積現象がある。EBTはヒト末梢血単核球を刺激して好酸球遊走惹起活性を産生し、この活性がPAFやGM-CSFを介していることが判明した。
3)IL−8関連の知見
インターロイキン-8(IL-8)は元来“好中球”の遊走、脱顆粒を惹起させるサイトカインであり、血管内皮、マクロファージなどから産生される。が、“好酸球”は通常状態ではIL-8に対する受容体が無いためIL-8には全く反応しない。
斎藤らは、EMSを好酸球集積を伴う全身の強い反応として捕らえ、好酸球自身の性状が健常者に比較し異常を来しているのではないかと考えた。そこで、気管支喘息患者の末梢血から精製した好酸球を、24時間事故品トリプトファン、EBT,PAAと培養したところ、IL-8により著明に好酸球遊走の亢進が見られた。これはEBT、PAA刺激を受けた好酸球上に、IL-8に対する受容体が新たに発現することによるものと考えられている。
3−5 食品衛生学的考察
EMSは食品の通常成分あるいは必須成分の過剰摂取に、その他のいくつかの要因が重なって、重大な健康障害をもたらした典型的な例である。特に、問題となったトリプトファン製品がいずれも日本薬局方、食品添加物公定書、アメリカ薬局方などの公的規格には適合する製品であったこと。また、通常ではほとんど問題にされない100〜200ppm濃度レベルの不純物が原因の一つとして働いていた。
(1) 製造工程上の問題
原料基質はアントラニル酸よりも葡萄糖の方が望ましかった。
発酵に用いる微生物は、時期により遺伝子組換えを行った異なるストレインが用いられていた。
活性炭カラムや逆浸透膜など精製工程を、中間製品の脱色度など肉眼的な判断により、選択省略など行っていた。精製工程は中間体の化学分析により管理すべきであり、不純物は代表的なもののみならずすべてについて、プロファイル分析により、常に監視されるべきである。GMPの概念が適用されていなかったところに問題があったと思われる。
事故品ロット中のEBTは、150〜200ppm、PAAは100〜150ppmであったが、他のロットや他社製品中には、EBT及びPAAがほとんど検出されなかった。また、事故品ロットは、精製工程における活性炭が少なかったことが指摘されているが、それが原因となって、本来除去されるべきEBTの残存量が、増加する可能性は大きい。一方、PAAは活性炭ではほとんど除去されずに残存するため、製造原料から、あるいは工程中での生成を抑止しなければ除去は難しいと考えられた。
(2) バイオテクノロジーなどの新技術により生産された食品の評価原則
既存の食品についての、新規製造法の評価原則の提案がされた。
@ 食品の品質評価においては、注意すべき対象を既知の有害物質に限定せず、不特定不純物全般に及ぼすべきであること
A メインの製造方法の変更や、バイオテクノロジーにおける使用組換え体が変化した時は、特に、不純物のトータルプロフィルの変化に注目すべきであること。
B 安全性評価においては、既存の天然物質との科学的同等性確認を重視すべきこと。
C 製造目的成分が単一物質である場合には、技術の許す限り精製操作を十分に施しておくべきこと
D 不純物への配慮は、通常0.1%を目標に行われるが、食品の摂取量が医薬品などに比べて多いことを考慮すると、0.01%を目標とすべきであること
E 極めて困難なことであるがハイリスクグループへの影響も常に念頭に置くべきこと
4 おわりに
(1) トリプトファン事故を教訓とした、内山氏のバイオテクノロジー利用食品に対する最終的な結論は、見事な論理に貫かれている。特にDに述べられたように、食品は医薬品よりも摂取量が多いので更に0.01%(100ppm)まで不純物を減らせ、という論理には感心した。普通の感覚では、医薬品は精製に精製を重ねたものとの認識で、食品は口から食べるから少々のことは大丈夫と考えるのに。
平成3年12月26日に、「組換えDNA技術応用食品・食品添加物の製造指針・安全性評価指針について」 という文書が、厚生省生活衛生局長名で通知されている。内容は私の理解を超えているが、この指針の中に、不純物については0.01%までチェックするようにというような、文言はない。
(2) トリプトファン事件を受けて、厚生省新開発食品保健対策室から、「アミノ酸を含有する健康食品の取扱について」という文書(平成2年3月31日付)が、通知されている。 @アミノ酸のバランスが悪い蛋白質の継続的摂取は、健康に悪影響 A特定のアミノ酸を高濃度に含有させた健康食品を、継続的摂取すると、アミノ酸バランスをそこなう恐れがあるので注意すること。 B健康食品については、そのアミノ酸スコアは、85以上のものであること、特定のアミノ酸を高濃度に含有させたものでないことが望ましい、等が記載されている。
文書内には、トリプトファンという文字は全くないので、私にはこの文書の存在はすでに記憶の外であった。トリプトファン事件を想像すれば内容がよく理解できるところだ。
(3) トリプトファン事件は、過去の重大事件−PCB・カドミウム・砒素ミルクなどとは人体への作用機序がかなり違うようだ。上で見てきたように、サイトカイン、インターロイキンなどが関与しているが、これらは生体内の免疫反応、アレルギー反応に関連する物質である。食品衛生においては、今後このような免疫反応、アレルギーに関連する物質・食品への配慮も考えていかねばならない。
(4) ISO9000という国際的な品質保証認定制度がある。自社の製品の品質保証を制度的に認定を受けるものである。しかしこの中でもっとも重要なのは、ISO9000の認定を受けた、と大々的に宣伝することではなく、大丈夫ですか、と消費者からの質問に即座に安全の証明を出来ることである。我が保健所では平成3年より消費者啓発活動が行われてきており、今年度も24名の食品衛生コミュニケーターを組織している。今年度は、「この食品ここが気になる」というテーマで食品を試買し、メーカーあてに質問状を出す調査活動を実施した。種々の質問に、丁寧な返事が返ってきた。
遺伝子組換え食品についても、このような信頼関係に基づいた双方向性のある関係があればと考えるところだ。
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